01.雲龍 久吉
1823年-1890年
追手風部屋
雲龍型の土俵入りで知られる十代目の横綱。新入幕から好成績を続け、安政5年正月に大関、文久元年9月に横綱を免許された。義理堅く、律儀で謙虚な人柄は人々に愛された。
年寄・追手風としても相撲興隆に大きな功績を残した。
- 出身地
- 福岡県山門郡大和町
- 入幕
- 嘉永5年2月場所
- 最終場所
- 元治2年2月場所
- 最高位
- 大関(横綱免許)
- 幕内成績
- 127勝32負20分預
雲龍型の土俵入りで知られる十代目の横綱。新入幕から好成績を続け、安政5年正月に大関、文久元年9月に横綱を免許された。義理堅く、律儀で謙虚な人柄は人々に愛された。
年寄・追手風としても相撲興隆に大きな功績を残した。
相撲史上最強の大力士。あまりにも強すぎて、「張り手」「鉄砲」「かんぬき」の三手を禁じられたと伝わる。江戸相撲出場36場所中、負けたのはわずか10番。横綱を免許されることなく引退した謎については、いまだに解明されていない。
7代目の横綱で、強豪力士として知られる。まれに見る人格者で、風流の道にも長じ、書は達筆であった。多くの俳句を残している。
阿武松をライバルとし、数々の好勝負を見せた。力士としては珍しく長命を保ち、晩年の写真が現存している。
18歳で227cm、169kg。古今No.1巨人力士。天保15年10月場所から嘉永3年3月場所までの12場所の間、一人土俵入りを行い、人々を驚かせた。
この間、1場所だけ幕下格で取組に出場したが、23歳の若さで死亡した。
前名は黒柳松治郎。文政7年10月に入幕。天保2年2月に追手風喜太郎を襲名、5年10月に関脇、7年11月に1場所だけ大関となり、その後は関脇。引退後は年寄として、角界の繁栄に尽力した。
4代目の横綱。初めは看板大関でスタート、後に実力を有した大力士となる。寛政元年11月場所、ライバルの小野川とともに横綱を免許された。人格は円満で、63連勝を記録するなど、第一人者であったが、現役で急逝した。
5代目の横綱。はじめ上方で修業、後に江戸相撲で、第一人者「谷風」のライバルとして対立した。名人タイプの力士。寛政元年11月場所に、谷風と同時に横綱を免許され、土俵人気を二分した。後に、下の名を「才助」と改名。
全盛期でも164cmと歴代横綱力士の中で最も小兵。恵まれない体格を努力と辛抱でカバーし、ついに9代目の横綱の栄位を許された。猛烈な闘志で年寄としても貢献し、弟子には後の横綱・陣幕が出ている。
前名を猫又と名乗り、その後に頂と改名し、文政11年3月場所で入幕した。小柄な体格で、愛嬌ある顔立ちは人気があった。横綱・阿武松を倒したこともあり、天保9年2月に鱝野上(えのえ)という難解な名に改めた。
161cm、84kgの小兵だったが、大きな敵を倒す手取り力士として聞こえ、相手の足の親指を取って引っくり返す「つま取り」を得意とした。大関・鬼面山との対戦では、両者の「待った」が100回を数える珍記録を残している。
立行司の式守伊之助の六代目。三代目伊之助の弟子で、初名は式森宗助、後に二代目式守鬼一郎から嘉永6年11月に式守伊之助を襲名。長く土俵を務め、明示10年1月、庄之助の引退で行司のトップとなり、13年9月に現役で亡くなった。
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